対話とはなにか。生きている対話の先にあるものについて
対話とはなにか
そもそも対話とはなにか。
対話とは相手を知る行為であると同時に、自分の心の中に思いを馳せるということ。さらに言えば、相手の中にある核と、自分の格が共鳴するようなこと。これは必ずしも共感という形を取らない。
もっと深いところにある、誰にも見せたことのないもの。いや、そもそもその人自身も見えていないところに埋まっているもの。
そこを掘り出した時に感じる衝撃。その共有。そして感動が起きる。
それが僕の考える対話である。
生きている対話、死んでいる対話
さらにその対話について考えていくと、「生きている対話か、死んでいる対話か」という視点が非常に重要である。
対話における「生きている」とはなにか。
それは言い換えると「即興性のある遊び」である。例えば、子供は鬼ごっこをする時に自由に公園を走り回る。そこに台本は無い。直感的な感覚で鬼から逃げる。鬼も自由に追いかけていく。
対話においても、「どこに向かうか分からないという即興性=生きている対話」ということであり、それはもはや「遊び」と呼ぶことができるのだ。
一方で「死んでいる」対話とはなにか。
それは「想定内の世界」と言い換えられる。つまり、予定調和的に進んでいくコミュニケーション。「きっとこの後の流れはこうなっていくだろう」と最初から分かってしまう時、対話は死んでしまう。
このふたつの基準や見極めは難しい。なぜなら、自分では「生きている」と思っていても、他者から見たら「死んでいる」こともあるからだ。
ただ、ひとつ言えることは「死んでいる対話を押し進めていっても、そこで得られるものはない。」ということ。
もしかすると、安住した心地の良さや自分の承認という見せかけの安心感などは手に入るかもしれない。
しかし、生きている対話をした時に得られる感動とは、全く異なるものである。
生きている対話の先にあるもの
対話というものはこれだけでは語り尽くせない。それほど深いものである。上に書いたことは、僕が考えていることの僅かな部分であり、それと同時にこれからも変化していくものである。
そのような前提のもと、「生きている対話の先にあるもの」についてまとめていく。
結論からいえば、「生きている対話」がなされた時、“過去の解釈の変化” “自然な葛藤” “人生の流れの把握”といったことが劇的に起こる。対話の精神を持っている者同士が深め合うと、想像もしていなかった深い次元での気づきが訪れるのだ。
そして、この経験をした時に、対話をした本人達は「心の奥底での変容」を痛感することになる。
この時、冒頭で説明したような共鳴が起き、驚愕して、感動が起こる。これは大袈裟でもなんでもなく、本当にこの感覚を心と身体で感じることができる。
改めて、これこそが「生きている対話」であり、僕が生涯やっていきたいことだ。
僕にとってこの感覚を味わうことが、生きる意味であり、そこに僕の存在がある。だからこれからも対話を探究していく。