考えるとはなにか。深く考える味わい

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考えるとはなにか

そもそも考えるとはなにか。

考えるとは、

「懐疑的」になって問いを立ててみたり、
「独創的」に発想を出したり転換してみたり、
「即興的」に何かを組み合わてみたり、
「好奇心」をベースに探究したりすることだ。

考えることは創造的で楽しい。

僕にとっては「子供のように遊んでいる」という感覚に近い。

例えば公園で遊んでいるときに、「ここの木って登れないかな?」と疑ってみたり、「段ボールの秘密基地を作ろうぜ!」と独創的な発想をしてみたり、「君も一緒にあそぶ?」と誘ってその場の人と即興的に楽しんでみたり。

僕にとっては「考える=公園で遊ぶようなこと」と定義していもいいかもしれない。

深く考える味わい

僕は子供の頃、泥団子をどれくらい輝かせられるかに熱中していたことがある。

「どうすればもっと輝くのか?」
「どうすればもっと綺麗な丸になるのか?」

こんなことを考えながら泥団子をつくるというのは、自分の好奇心の探求であり創造であった。

この「探究と創造」こそまさに「深く考える」ということだ。

もう少し具体的に言うと、「縦方向の思考」である。

簡単に表現するなら「なぜ?」という質問を何回も積み重ねていくこと。

とにかく縦に、深く深く掘り続けていくと、地下に流れている水脈まで辿りつく。

まるで温泉を掘り当てた気分。

地下の水脈までたどり着くと、それは横方向に広がっていることに気づくことになる。

つまり、「思考の深さ」を追い続けることによって、「思考の幅」が生まれていくということだ。

この思考ができた時に、人生の様々なシーンにおける解釈に流動性が生まれて、自分自身を固定化せずに歩んでいくことができる。

つまり、泥団子を誰よりも輝かせることに時間を費やしたように、深く考えることにどんどん磨きをかけていくことによって、僕の人生は味わいのあるものになっていくのである。

日々、深く考え続ける。

さて、ここまで話してきたことは、僕の人生のテーマのうちの1つだ。

まとめると、「日々、深く考え続ける。そして地下水脈まで掘り下げて幅を作る」ということ。

僕はこれを死ぬまでやり続けると思う。

おそらくそんな気がしている。

これが僕にとって生きることであり、人生の課題でもあり、幸せでもあり、葛藤でもあって、そして苦しみでもある。

しかしその苦しみを味わいきった先に絶望があり、そこから自由に遊ぶことができるのだ。

僕はそう信じているから、とにかく考えて考えて生きていく。

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