「僕」としての感覚は死んだ後にどうなるのか?
僕たちはこの星になぜだか生まれてきて、その目的や理由も知らされていないし、気づけば「自分ってなんで生きてるんだっけ?」という問いがぐるぐると巡るようになる。
いや、よく考えてみりゃ、「この星に人間として生まれたい!」と思って生まれてきたわけじゃないから、「生きる意味がわからなくなる」とか、「生きる理由を探す」って至極真っ当なことなのかもしれない。
「自分探しの旅」という言葉にも象徴されるように、そもそも僕たちは僕たち自身のことを全然知らないし、もしかすると死ぬまでわからないんじゃないかとも思ったりする。
ただ、もう人間として生まれてきているという事実はどうやったって変えることができないから、「私は人間である」ということと、「私は誰なのか」という壮大な問いを持ち続けて生きていかねばならない。
これはなんとも残酷な世界に生まれてしまったなぁと、そんなことを頭にぼんやり思い浮かべている。
もし「僕」がこの世に生まれていなかったとしたら、「僕」が今感じている感覚や思考はそもそも無いということになる。すると苦しいとか辛いとか、そういうことを感じたりしなくてすむのだ。
そう考えると、人間として生まれなければ実に楽だったんだろうなぁと思うけれども、もしかすると別の人間として生まれていた可能性も捨てきれない。
「ひで」じゃなくて「マイケル」として生まれていたとしても、そこには今感じている「僕」と全く同じ感覚があったのかもしれない。
結局のところこの身体を動かしている「僕」は、たまたま「ひで」という身体を選んだだけで、僕が死んだとしてもまた誰かの身体に生まれるのではないか。
でも、そしたらまたこの残酷な世界に生み落とされて、また0歳から人生をスタートせねばならないのか。
いや、もしかしたら、「僕」という感覚はこの先もう二度とこの世の中に戻ってくることはないのかもしれない。
たしかに生まれる前のことを想像してみても、「僕」という感覚はない(と思っている)し、やっぱり僕は生まれてきてから今日に至るまでの記憶しかない。
すると死んだ後はなにもないという無。いや、無もない、という無……という無限ループ。
でもきっとこういうことを想像できてしまうということは、「死んだ後の世界」のなにかしらを、僕たちは潜在的に知っているのかもしれない。