「主観を研ぎ澄ませる」ということ

「主観/客観」という言葉は、いろいろなシーンで使われていると思いますが、特に誰かの相談に乗ったりするときには、「それは客観的には○○だと思うよ」みたいに、「客観」を大事にする雰囲気というがあるように思います。

もちろん、じぶんひとりだけではこの世界を生きていくことはできないし、「他の人たちがどう思うか」という視点を一切抜きにしてしまうことは望ましくありません。

しかし、「常に客観的に物事を考える」ということばかりに気を取られていると、もはやそこに自分は存在しなくなってしまう。

それはつまり、世間の中に埋没して、じぶんの個性を封じ込め、そして他者への理解もしなくなる、ということなんです。

そうなってしまうと、僕たちが人間として生まれてきた意味が薄まってしまい、せっかくの味わい深い人生が色合いを持たなくなってしましいます。

なので、今回の記事では「主観を研ぎ澄ませる」ことの大切さについて話していきたいと思います。

目次

「主観を研ぎ澄ませる」とは?

まず、「主観を研ぎ澄ませる」とはどういうことか、これを定義したいと思います。

主観を研ぎ澄ませる=自分が世界をどのように見るか、何を感じるか、何を考えるか、という感覚を鮮明にしていくこと。

この定義だけだとちょっと抽象的なので、具体例を3つ出してみたいと思います!

「主観を研ぎ澄ませる」 具体例1

とある映画を観たときに、「あぁ面白かったな〜」という感想で終わらせるのではなくて、何が面白いのか、なぜそう感じるのか、というところまで言語化すること。

「面白い」という感想はその他大勢も持っているけど、「○○が面白かった。それはなぜなら□□だから」という感想は、唯一無二になる。

「主観を研ぎ澄ませる」 具体例2

友達から「上司との関係性が良くなくて悩んでいるんだよね」と相談されたときに、「上司は○○と思っているかもよ」とか、「一般的には自分から距離を詰めたほうが良いかもね」と言うのではなくて、「私は△△だと感じているよ。なぜかといえば□□だから」と伝えること。

そのアドバイスが「正しいか、間違っているか」という観点は重要ではなく、「私は」という主語で自分の感覚を伝えられているかどうかが鍵。

「主観を研ぎ澄ませる」 具体例3

自分が失恋してしまって、ひどく落ち込んでいるときに、たくさんの人に「話を聞いて!」ってまわるのではなく、じぶん一人の時間を作ってじっくりと向き合うということ。

そのときに出てきた感情や考えを言葉にしてノートに書いてみたり、音声で録音してみたり、はたまたボーッとしてみたり。自分の中にいる他者と膝を突き合わせて対話をすることで見えてくるものがある。

「主観を研ぎ澄ませる」のまとめ

上の3つの具体例を考えながら記事に書き出してみて、「主観を研ぎ澄ませる」という言葉の定義が、よりアップデートした感覚があります。

主観を研ぎ澄ませる=世界でひとりの人間である「私」の、唯一無二の「感覚」を、自分の心に根ざした「言葉」で感じ取るということ。

まさか僕もこんな短時間で言葉の定義が変容していくとは思ってもいませんでしたが、まさにこういう思考の流れ、これこそが「主観を研ぎ澄ませる」ということです。

僕はこの記事を書くという時間を過ごさなければ、このような変化は起きなかった。そう考えると、自分と向き合う、自分と対話するということがとても大事だということが浮き彫りになってきます。

ということで今日はこのへんで終わりにしたいと思いますが、このテーマはまだまだ奥深いのでまた書きたいと思います!

最後までお読みいただきありがとうございました!!

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