対話屋さんについて– Profile –

対話屋さんってどんな人?

改めまして、僕は「対話屋さん」という肩書きの個人事業主で、「対話」を軸にさまざまな活動をしています。

ただ、そもそもこの世の中には「対話屋さん」という職業はありませんし、きっと「ひでって何者なんだ?」といった疑問を持たれている方もいらっしゃるのではないかなと、そんなふうに思っています。

ということで、このページでは僕のざっくりプロフィールや、対話屋さんに至るまでの経緯についてまとめてみました!

ざっくりプロフィール

対話屋さん

名前 ひで(本名の「ひであき」から取ってます!)

職業 対話屋さん・個人事業主

年齢 1995年8月生まれ

出身 千葉県市川市(今は都内で一人暮らし)

身長 175cm

体重 67kg

血液型 AB型

大学 立教大学 法学部政治学科

部活

小中高は野球部・大学は野球サークル(合計で16年野球をやってました)

好きなこと

美味しいご飯食べる、ウクレレ弾く、ミュージカル鑑賞 etc…

好きな音楽

ミスチル、ヨルシカ

好きな食べ物

そら豆、人形町の焼き鳥丼、寿司、AFURIのラーメン(その他めちゃくちゃあります笑)

ざっくりプロフィール

対話屋さん

名前 ひで(本名の「ひであき」から取ってます!)

職業 対話屋さん・個人事業主

年齢 1995年8月生まれ

出身 千葉県市川市(今は都内で一人暮らし)

身長 175cm

体重 67kg

血液型 AB型

大学 立教大学 法学部政治学科

部活

小中高は野球部・大学は野球サークル(合計で16年野球をやってました)

好きなこと

美味しいご飯食べる、ウクレレ弾く、ミュージカル鑑賞 etc…

好きな音楽

ミスチル、ヨルシカ

好きな食べ物

そら豆、人形町の焼き鳥丼、寿司、AFURIのラーメン(その他めちゃくちゃあります笑)

以上がざっくりプロフィールです!

ひとまずは「野球をずっとやってたんだ」とか「食べることが大好きなんだ」みたいに思ってもらえたら嬉しいです!笑

ちなみに僕は3兄弟の真ん中で、兄は5個上、弟は6個下。

3人とも高校までがっつり野球をやっていたので、学生時代は家の中に常に汚れたユニフォームが洗濯されていたり、グローブやスパイクなどの野球道具があちこちに溢れていましたね(懐かしい思い出です)。

僕の幼少期や学生時代の話は、以下のページに詳しくまとめていますので、よかったら覗いてみてください!

対話屋さんに至るまでの経緯

「対話屋さん」に至るまでには、本当に様々な経験がありました。

だからなんとなく「対話の仕事がしたいな〜」と思い立ったわけではありませんし、「対話屋さんになったきっかけはコレです!」みたいに、一言で語れるようなものでもないんです。


なのでここからは、僕が大学を卒業した後、どのような経緯で「対話屋さん」になったのか、時系列で要点をまとめながら説明していきたいと思います!

2019年3月
「立教大学 法学部政治学科」を卒業

大学4年生のときに「(S)先輩と(I)一緒に(M)真っすぐな就活を」というコンセプトで『SIM(シム)』という名前の就活支援団体を設立しました。

そこで僕は後輩達の自己分析をお手伝いするために、一対一の対話をしていたんですよね。


具体的には、就活生と一緒にカフェに入って、数時間かけて話を聞きながら、0歳から今日に至るまでの人生の話をじっくり深掘りしていくというものです。

(すでにこの時から現在の対話プログラムと似たようなことをしていました)

僕はそこで40人〜50人ほどの就活生と合計200時間以上の対話を重ねたのですが、この経験によって、僕の対話の根本部分が形成されたように思います。

当時使っていた実際のノート。友達と一緒に「SIM」という名前を作った日のメモです。
当時使っていた実際のノート。友達と一緒に「SIM」という名前を作った日のメモです。
2019年4月
株式会社リクルートスタッフィングに入社

新卒で入社した会社は、リクルートの中でも「人材派遣」の事業を行っている「リクルートスタッフィング」という会社でした。

そこでは営業マンとして、既存顧客の問題解決をしたり、新規開拓の飛び込み訪問なども行ったり、さらには派遣スタッフさんのサポートも担当していました。


合計150名以上のスタッフさんと、将来のキャリアのことから家族に関するお悩みまで、幅広いジャンルの対話を重ねたのですが、その経験も僕の対話の大きな土台となっています。

2020年2月
母が余命宣告をされる

社会人1年目がそろそろ終わろうとしていた2020年2月、母親が「膵臓がんステージ4・余命1年」の宣告をされました(ちょうどコロナが日本に入ってきた時期です)。

当時はかなり衝撃的で、とても動揺しました。でも、ある意味それをきっかけに、自分の仕事や人生について真正面から問い直すことができたんです。


闘病生活が始まるなかで「母をひとりにさせたくない」という想いが僕のなかに湧き上がり、母の気持ちを整理するために一対一の対話の時間を設けることにしました。

会社が土日休みだったこともあり、毎週土日のどちらかに必ず予定を入れて、2〜3時間かけてじっくり話を聞きながら、母の言葉をずっとメモに残していきました。

結果的に1年以上続けることになりましたが、母が絶望的な気持ちから、希望を持って前向きに生きる過程をかなり近くで見ていたので、対話の力の偉大さを心から痛感することができたんです。

このように母と続けていた対話経験によって、対話屋さんの核となる使命が芽生えていきました。

こちらも当時使っていた実際のノート。母の幼少期から学生時代の話を聞いた日のメモです。
こちらも当時使っていた実際のノート。母の幼少期から学生時代の話を聞いた日のメモです。
2020年8月
株式会社リクルートスタッフィングを退職

社会人2年目の2020年6月、「自分の力で仕事をつくりたい!会社を辞めて挑戦しよう!」と決意しました。

というのも、余命宣告をされた母と向き合うなかで、自分自身も今後の人生で何があるか分からないと思うようになり、身体が健康で動けるうちに「自分がやってみたかったこと」に挑戦してみたいという気持ちが湧き上がってきたんです。


そして同年8月に正式に退職し、「個人で働く」という道に足を踏み入れました。


一方で、母の人生は1年しかないということは決まっていたので、当時の僕は「まずは仕事よりも母との時間を最優先しよう」という気持ちでいました。

そのため、独立してからは極力時間の融通が効くように、トレンド情報をまとめる「ブログサイト」を自身で作成して、記事の執筆をしていました。


収入は少額ではありましたが、母を病院に送り迎えする際の空き時間や、早朝・深夜などの時間でも執筆作業ができていたのは良かったなぁと思います。

2021年1月
SNSでの発信活動をスタート

そのような中で、徐々に「自分自身についても発信してみたい!」と思うようになり、2021年の元旦からnoteの毎日更新をスタートさせました。

最初は「自己分析」や「自己理解」をテーマにnoteで発信していたのですが、だんだんと読んでもらえるようになってきたので、「そろそろ音声配信もやってみようかな〜」という気持ちになり、同年6月からstand.fmにも挑戦するようになります。

結果的にnoteもstand.fmも毎日更新するようになりました。

そして2021年末、母親が亡くなったことを機に、いよいよ僕も「自分の仕事に本腰をいれていくぞ!」と新たなるスタートを切ることになります。

2022年1月
「対話」を軸とした活動をスタート

まず最初に取り組んだことは「3ヶ月限定の対話コミュニティ」の運営でした。

2021年の元旦から、SNSの発信活動を毎日続けてきたこともあり、僕が「対話コミュニティをつくります!対話したい方ぜひ!」と宣言したところ、7名の方に集まっていただけたんです。


この当時はまだ「対話屋さん」と名乗ってはいませんでしたが、この活動が「対話屋さん」にとっての原点であることは間違いありません(当時参加してくださったみなさま、改めてありがとうございました!)。


ちなみにこの2022年は、本当にたくさんの挑戦をさせていただきました。

例えば人生初のクラウドファンディングに取り組んだり、一対一で対話をしながら転職をサポートするお仕事をしたり、対人支援の仕事をされている知り合いの会社で新しいサービスを立ち上げるお手伝いしたり、ここには書ききれないほどのことが目まぐるしく起こっていったんです。


そして2022年末、僕は自分の肩書きを「対話屋さん」というふうに定め、自身の対話のサービスを本格的に運営していくことになります。

2023年1月
「対話プログラム」の開発と運営をスタート

もちろんですが、いきなり「4ヶ月の対話プログラムやります!」ということではありませんでした。


毎日毎日頭を抱えながら「どうしたらクライアントさんにとって、いい対話のサービスになるだろうか」という問いと向き合い続けていました。

そして「対話プログラムの前身となるサービス」を3つ〜4つ開発し、当時のクライアントさんにたくさんのヒアリングをさせていただきました。


そのクライアントさんの声をもとに何度も何度も改良を重ねて、2023年3月「対話プログラム」が完成し、スタートすることになったんです。

そして今日もなお「対話プログラム」を改良し続けながら、クライアントさんと対話を重ねていく日々を送っています。

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