「感動」そのものが生きる力になる。生きる意味になる。

「感動」そのものが生きる力になる。生きる意味になる。一度でも、魂の奥底から湧き上がってくるような「感動」を経たら、たとえ今日がつらくても、明日もつらくても、それでもなお、心に灯っている火は消えない。過去にあの「感動」があったことを知っている。だから未来にまた、あの「感動」があることも知っている。

ここでいう「感動」とは、単に「自分のここがすごいね」という褒める感覚でもなければ、「自分のダメだと思っていたことも良い部分もあるじゃん!」みたいなネガティブをポジティブに変換することでもない。だから「自分らしく生きよう」とか「自分を愛せるようになろう」とか、まったくそういうことではない。むしろそれは目指さない。

じゃあなんなのかといえば、くっさいへどろみたいな濁流の中に必死に手を突っ込んで、かすかに見えた「芽」を見つけ出すこと。今日見つからなくても、明日見つからなくても、それでも見つけようとすること。

へどろしか掴めないことがあっても、それでも掴んでは手を開いて、それを見つめること。へどろしかないじゃんと絶望しても、それでも、もう一度手を突っ込む。そこにたしかに「芽」があった時、自分への感動が奥底から湧き上がる。

そしてその「芽」を自分の手でしっかり握る、離さない、綺麗に洗う、大切に育てる。機会があれば、それを他者に表現する、でも安易に触らせない。自分の手で守り抜く。

補足すれば、「自分らしく生きる」とか「自分を愛する」というのは、自分への感動のその先にただあるもの。つまり、自分への感動を経験した人には、どこかのタイミングで訪れる感覚ということ。だから、それを目指してしまうと、本末転倒になりかねない。

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