自己否定のウラ側にある「構造」について

今日の対話会で僕の中心思想の「自己否定を終わらせる」について話す時間があったのですが、改めてその根底にある考えについてまとめてみたいと思います。

そもそもなぜ「自己否定」が生まれるのかといえば、親の価値観を押し付けられたり、部活動でうまくいかずに苦い経験をしたり、過去の恋人に酷いことを言われてしまったり、人それぞれいろいろな理由が見つかります。

しかし、もっともっと根本的なところまで辿っていくと、そこには人間ならではの「考える」という行為が元になっていることがわかってきます。つまり人は「考える」ことが出来るからこそ、「自己否定」をしてしまうということです。

いったんここで「考える」ための条件をおおざっぱにまとめてみると、

①言葉を扱えること
②主客分離ができること

という2つがあります。

①について簡単にまとめれば、人はものを考えるとき「どうして空は青いのだろう?」「あの人はもしかしたら嘘をついてるかもしれない!」といったように、必ず「言葉」を使って思考を巡らせています。

裏を返すと「言葉」を持っていなければ、「考える」ということはできません。動物界のなかで、これだけ高度なことをやってのけるのは人間だけです。

②の「主客分離」については具体的に説明してみます。まず結論からいえば「見ている自分(主体)」と「見られている対象(客体)」を、パカッと切り離して認識するということです。

それを僕たちは普段あたりまえに(なんの意識もせずに)やっているわけですが、たとえば生まれたばかりの赤ちゃんの段階だとまだそれができない。要するに自分(主体)とそれ以外(客体)の境界線がないということです。

目の前にいるお母さんも、目の前にあるおもちゃも、すべてが世界であり、そこに「区別」がないのです。

しかし、成長して理性が芽生えてくると、徐々に自分以外の世界を発見していきます。

つまり、「自分(主体)とお母さん(客体)」とか、「自分(主体)とおもちゃ(客体)」といったように「主客分離」が起こるようになっていきます。

では、一体なぜこれが「自己否定」に繋がるのか?

それは「主客分離」が起こることで、人は「自分自身」を「客体」として見ることができるようになるから。

つまり、

「自分」という主体が
「自分」という客体を
「ダメな奴だ」と否定する

という構造が成立してしまうのです(これこそが人間ならではの構造)。

つまり人は「考える」ための言葉を持ち、この世界を「自分」と「それ以外」に分ける理性を手に入れてしまったが故に、「自分自身をも否定する力」を手に入れてしまった。「自己否定」の問題の裏側にはこのような構造が控えているのです。

なので「自己否定」の問題と向き合うとき、他の動物には見られない「人間ならではの構造」についても、しっかりを目を向けなければいけません。

ただ単に「過去の嫌だったできごとと向き合ってみる」「当時の気持ちを言葉にしてみる」「怒りの感情を浄化してみる」とやってみても、一時的には効果があるかもしれませんが、根本的な解決には至らないということです。

要するに「自己否定を終わらせる」というのは、悩みを解決するとか過去の記憶を浄化するとか、そういうことを目指しているわけではないのです。

もっともっと土台のところ、つまりその人がどのように「言葉」を使ってどのように「思考」をしているのか。そして「自己否定の構造」がどのようなカラクリになっているのか。

そこにスッと切り込んでいき、不要な部分は丸ごと外に追い出し(根気強く追い出します)、そして新たに必要な部分と総入れ替えをしていく。

いわば「昨日まで信じていた天動説が、地動説にひっくり返るような転換」とでも言えるほどの、相当なインパクトを起こすということなのです。

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