4年前、僕の中にはじめて「怒り」が生まれた。母に対して思い切りぶん投げた。

4年前、僕の中にはじめて「怒り」が生まれた。ここでいう「怒り」とは、ふだん人に対して「イライラする」とか「不快に思う」みたいなこととは全くちがうものだった。こんなにも熱のある、マグマのような、自分が自分じゃないかのような、そんな「怒り」が僕の中にあるとは、それはとても驚きだった。

そしてその「怒り」を両親にぶつけた。特にその矛先は母に向いた。目を血走らせ、今にも大声を張り上げてしまいそうな気持ちになりながら、それでも暴言という形を取らないギリギリのラインで、僕は「怒り」を言葉にした。思い切りぶん投げた。

人生で初めてのことだったので、当時はかなり混乱した。戸惑い、自己嫌悪、あらゆる負の感情が心と身体を駆け巡り、こんなにも自分が崩壊していくような感覚になるのも初めてだった、だからもうその先はまったく見えない。お先真っ暗。

というか、これまでの人生もなんだったんだよ。よくもこんなことしてくれたな。もう時間は戻らないじゃないか。過去に戻れないじゃないか。あの時、あの5歳の時の僕が感じた悲しみや切なさや苦しみやもどかしさは、もう事実として存在してしまっているから、消すことなんてできないじゃないか。

なぜ僕の好奇心を、なぜ僕の純粋な気持ちを、お前ら親たちは受け取らなかったんだ。踏み潰したんだ。それから20年も経ってしまったじゃないか。もう戻れないんだよその時には。終わりだよ。自分らしい人生なんて、そんなのもうやってこない。もう終わりだよ。

両親にぶつけた「怒り」というのは、そういう「怒り」だった。イライラするとか頭に血がのぼるみたいなこととは一線を画す。火山の大噴火、大爆発。

ただそんな「怒り」の中にいた時、ほんのわずかに見えてきた光があった。少しずつだけど着実に、なにか前進しているものがあった。今まで信じてきたことがすべて崩壊し、二元論が終わり、自己否定が止み、この世で謳われているほとんどのことが嘘で塗り固められた陳腐なものだと気づき始めた。

僕が生きてきた人生も、僕が信じてきたものも、すべてはそこで燃やされた。怒りによって崩壊した。2021年当時、僕は25歳。その年を境に、すべての認識がひっくり返り始めることになった。

これまで信じてきたあるゆる価値観や常識の裏側にまわってみると、そこには何もなかった。見栄えだけは一丁前、中身はスカスカ。土台もぼろぼろ。風が吹けば飛んでいく程度のものだ。僕はそんなものを信じていたんだ。そんなものに支配されていたんだ。世間の常識なんてクソ食らえだ。

世界はこんなものか、この程度のものだったんだ。世の中の大人は嘘しか言ってないじゃないか。本当のことはどこにもないじゃないか。みんなが「これは大切だよね」と言うことは大切じゃないし、みんなが「これは駄目だよ」と言うことは駄目じゃない。すべて逆だ。

そうか。そうなんだ。世界とはそうだったんだ。むしろ自分が世界に対して期待を持っていたんだ。ならばそんなものを捨て去って、自分でこの世界の真実と呼べるものを見に行ってみよう。掴み取ってみよう。自分で創造してみようじゃないか。

絶望、その先の「生」の肯定。力強さ。立ち上がる力。そういうものは、「怒り」を通してこそ獲得される。「怒り」が生きる力となり、生きる意味を与え、生きる道筋を照らしてくれるのだ。

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