「自己開示」という言葉の限界について
「自己開示」という言葉はとくに検討されることもなく使われている印象がありますが、そもそも「自己」を「開示」するっていうのはめちゃくちゃ曖昧な言葉なので、いったん立ち止まって考えてみたほうがいいんですよね。
やみくもに「自己開示しなきゃ」となってしまうと、人に話さなくてもよかったことを無理やり言葉にしてしまうということもあるだろうし、もしくは自分の本当の感情とはすこしズレたところの言語化になって、話してみた後に「さっき伝えた言葉はなんか違ったかもな…」みたいに後悔することがあるかもしれません。
あともうひとつ思うのは、「自己開示」という言葉のなかに「開く」という漢字がありますが、それはつまり「閉じている状態がある」ということが前提になっているんですよね。閉じている、それを開く。だから「開示」するという言葉になるわけです。
それはたしかにその側面もあると思うんですが、一方で人間という生き物はそう簡単に理解できるわけではく、むしろ果てしない奥行きをもっていたり、これまでのさまざまな歴史が複雑に絡み合っていたりするので、ただ単純に「これまでは閉じていた自己を開示します」というだけではうまく伝わるはずがないのです。
なのでもし仮に「自己開示」という言葉を使うのであれば、そもそも「何を」開示するのか?「なぜ」開示するのか?「今」開示する必要はあるのか?といったように、細かな点について流すことなく丁寧な検討をすることが大切なのではないかと思います。
