データや根拠よりも、ココロとカラダの反応を信じて生きる。
「やりたいことを探す」や「好きなことを仕事にする」みたいな考え方には一定の限界があるように思います。というのも「やりたいことを探す」の背景には「やりたくないことはしたくない」という気持ちがあるし、「好きなことを仕事にする」の背景には「嫌いなことを仕事にしたくない」という気持ちがある。
要するに「やりたいorやりたくない」「好きor嫌い」という二元論の世界のなかに軸足があるということです。
でも僕たち人間のココロが躍動しているときや、爽やかな充実感をカラダ全体で感じているときというのは、こういう二元論の世界にはいないんです。 もっともっとシンプルで、カラダやココロの反応にずっと素直であるんです。あぁ美味しいな。あぁ楽しいな。あぁ嬉しいな。あぁワクワクするな。こういう感覚が泉が湧き出るように溢れてきます。
「生きる」というのは本来そういうことである。ここ数年の経験を通して深く実感するようになりました。
ただ、社会はそうさせてくれない。もっとちゃんとしなさい、もっと有意義な生活を送りなさい、もっと役に立つことをしなさい、根拠はあるんですか?、データはあるんですか?、あなたはそれを発言するに足る人間なんですか?
そういった浅薄な価値観をベースにしたさまざまな言葉たちが、この世界を埋め尽くしているように思うのです。その言葉たちは「一見正しそう」に見えてしまいますが、それはあくまで「一見」に過ぎないということを忘れてはいけないなと思います。
ここで言いたいことは「やりたいことを探そう」とか「好きなことを仕事にしよう」という発想がダメということではありません。
そうではなくて、あくまでココロやカラダが素直に喜ぶ方向へと足を進めて行った先の結果として「じぶんの資質を生かせることと不意に出会うことができた」とか「じぶんの信念が根底に流れる仕事にたまたま巡りあった」ということが起きるということ。そしてそれこそが真に「人生」と呼べるものだということです。