「じぶんに許可を出す」という言葉の違和感
「ネガティブな感情を持ってもいいんだよ」「ありのままで生きていいんだよ」という言葉につづけて「もっとじぶんに許可を出そう」というアドバイスをよく耳にするのですが、僕はどうしてもこの「じぶんに対して許可を出す」という発想そのものに違和感があります。
というのも「許可を出す」という行為は、そもそも「禁止されている状態」に対して行われるものなので、それはつまり「じぶんに対して何かを禁止している状態」があるということです。
だからまず考えるべきなのは「じぶんに対して“何を”禁止しているのか」であったり、「なぜ禁止されている状態にあるのか」ということであったり、要するに「禁止」に至るまでの歴史や背景を紐解くということが重要なのです。
また、もし仮にじぶんに許可を出すことができるようになったとしても、禁止に至るまでの根本的な原因が消滅したわけではないので、本質的な解決には至らず、またどこかのタイミングで「じぶんに許可を出さなきゃ」となってしまいます。
ここまでの話をわかりやすくするために「通り抜け禁止の門」を例に挙げて説明してみます。
たとえば「この門の通り抜けは禁止です。もし通りたい場合には通行許可証が必要です」という決まりごとがあったときに、そこを通るたびにわざわざ許可証を用意するのでは手間がかかりますよね。しかもそれが毎日の通学路とかであればなおさら大変です。
そんなときに「許可証の発行条件を緩めよう」「許可証の発行スピードを上げよう」「許可証をスマホ対応にしよう」といったことを考えるのではなく、次のように発想を転換していきます。
「いっそのこと許可証なんか廃止してしまって、なんならその門も取り壊しちゃって、いつでもだれでも通れる快適な道に作り変えてしまおうじゃないか」と。
それはつまり「通行許可証が無いと通れない禁止状態を終わらせる」ということです。「禁止状態」が終われば必然的に「自由」がやってきます。
話をもとに戻すと、まず目を向けなければならないのは「自分に許可を出す」ということではなく、むしろその背後にある「禁止状態」そのものであり、奥深くに眠っている根本原因を消滅させるということ。
それができた時にはじめて人は「自由」になり、じぶんの感情に素直になったり、ありのままのじぶんで生きられるようになったりするのです。